ニットフェステイバル2005取材レポート | トップへ戻る



おはようございます。日本編物文化協会の広瀬でございます。たくさんの方に来ていただき、ありがとうございます。
日本編物文化協会が出来まして40数年、編物の歴史を一同に会してご覧いただきたく、今回のこの100点の作品を復刻させていただくことになりました。100点の作品は、全国の日本編物文化協会の先生方が編んで下さいました。編図なんてないに等しいんですが、それを着実に復元していただき、本当に素晴らしいことだと思います。50数年間のニットのファッションとしての歴史を辿ってきたんだな、と。


小さい頃を振り返ってみると、いろんなことがありました。
小学校低学年の頃は、リリアン遊びが流行りました。出来上がるのはただのヒモのようなものなのに、なぜか楽しくて男の子も女の子もみんな夢中になって遊んでいました。
5年生になると家庭科の授業が入り、学校に行くのがさらに楽しくなりました。成績はよくなかったんですよ。3と4。その中で燦然と輝いていたのが、家庭科の5だったんです(笑)先生に、算数だったらよかったのにねって言われたら、そこでしょぼんとなったかもしれませんが、先生はそんなことは言わなかったですね!そういうことが得意なんだということを認めてくれました。このときの先生がいてくれたおかげで今があるんだなぁと思います。


そして中学に入り、男子は技術、女子は家庭科に分かれました。男子の技術ではラジオを作ったりしました。私は手先のことは嫌いじゃなかったので、それはそれで面白かったのですが、女子がパジャマを作ったり、浴衣を縫ったりしている姿がうらやましくもありました。


高校に入り、いよいよ私の編物人生がはじまります。高校2年のとき修学旅行がありました。行き先はアンケートの集計が一番多かった東北地方。11月だったので、これは寒くなるぞと思い、セーターを持っていくことにしました。でも、みんなと同じ物を着たくない。何かおしゃれをしたい。じゃあ自分で作ってみよう!と思ったわけです。母親が編物が出来れば、じゃあ編んで、と言ったのでしょうが、編物はしないし、編んでくれる彼女もいませんので、やっぱり自分で編むしかないと決心しました。たくさんの本の中から自分で出来そうなもの、はじめてやるわけですから、全部絵になっているものを選んで、書いてある材料を全て揃えたわけです。2〜3週間たって出来たんですが、どうにも小さい。この1回目できちんと出来上がっていたら、編物というものに興味を持たなかったかもしれません。出来なくて悔しい!という思いで、糸をほどいて2回目を編みはじめます。今度は袖がちょっと短い。首もなんとなくきついかな。このままでいけないことはないんだけど、いいや、もう1回編みなおしてみよう!と思い、またほどきます。3回目、今度はもう本を信じなくなるんですね。目数どおり編んでいるのに、なんで違うんだろう。素人なのでゲージなんて知りません。3回目は普段着ているセーターから型紙を作って作りました。そしてようやく完成です。そのセーターを着ていった修学旅行は、とても思い出深いものとなりました。


そしていよいよ就職ということになりました。商業高校ですから昔は就職率100%。いろいろなところから募集がきていました。どうしようかと思い、先生に相談したところ、まずデパートや銀行を進められました。ですが、デパートは土日お休みではないし、銀行は1円でも合わなかったら帰れないという噂を聞いていたので、どちらも気が進みません。他にどこかありませんか?と尋ねたところ、水産会社を進められ、そこに就職することにしました。


就職してから休み時間に、お昼を食べ終わってからの時間で編物をしていると、いつの間にか人が集まり、会議室で数名の人達に教えるようになりました。そんな時に、編物クラブの部長さんに声を掛けられ、「あなた、それだけ出来るんだったら、もっと専門的に学校で勉強してみたら?」と言われたんです。そこで編物の学校があることを知ったわけなんですね。


働きながらいける夜間の編物学校に通いはじめます。編物学校というと全員女性です。先生もはじめ考えたそうです。男性が1人きたけど、どうしよう。男子トイレもないし・・。それでも先生の紹介があったから通うことが出来たんですね。昼間の学校でも卒業するには3年かかるので、夜間だと6年はかかると先生に言われていましたが、資格をとること、3年で卒業することを目標に決めたので、どうしたらいいか先生に相談しました。全ての課題を3年間に提出すること、編物の検定があるので1級までとること。それが出来ないと、卒業の免除はあげられません、と言われます。わかりました!ということで、学校に行ったら、もう編んで編んでとにかく編んでいました。その繰り返しで、なんとか3年間で課題を提出し、検定は1年に1回しかないので3級からはじめて、順序よく受かったわけです。2級を受けたときに成績優秀ということで表彰を受けました。そこで副賞としていただいたのが、日本ヴォーグ社の通信教育セットだったんです。編物学校に通っているのに、なんでまた通信教育まで・・と思ったのですが、無駄にも出来ず、はじめることにしました。今思えば、これも何かのご縁だったんですね。そんなある日、アムウという雑誌が送られてきて、そこに社員募集・来春編物学校を卒業の方の記事を見つけました。編物が仕事になるかもしれない。と、その時はじめて思いました。そんな考えを上司に話したところ、「広瀬君、いいかもしれないね。君はここにいる人間じゃないかもしれない。」といってくれて嬉しくなりました。そして会社を辞め、ヴォーグ社の試験を受けたわけです。一般常識の試験と社長面接を終え、それから1週間して合格通知が届きました。


入社してまず編集部に配属になりました。ここも全員女性です。10年ほど編集の仕事をし、アムウという雑誌の編集長を務めました。本作りをひととおり経験したところで、今度は直接教えるほうに興味がわいてきました。世代が違ったり、国籍が違う方達と集まって、みんなで編物をしていくことはできないだろうか、ということで、うちの会社には講習という担当があったので、そこに転属の希望をしました。それまではなかなか男性で講習をする人はいなかったんです。「あなたみたいな人を待っていたのよ」「広瀬くんの時代が来るかもしれないわ」と言う先輩の先生方のお言葉をいただき、44歳になったとき、もう1回自分の編物を考えてみよう。講習会をすることもいいけれど、自分の教室・自分の生徒さんを持ったらどういう風になるんだろう、と思い、フリーになりました。それから6年経ちます。


編物というとあったかくて、優しくて、なんとなく普段着なイメージがあるんだけれども、なんとかそうではなくて、フォーマルには向かないと言われますが、いいえ、そんなことはない。ニットだってこれだけのことが出来ますよ。なんとか一般の方々にも編物のよさをもっと知ってもらいたい、という思いで作品をデザインしてきました。


最近思うことは、編むことが好き、手を動かすことが好き。それによって心が癒されたり。また子供達が編物をすることで集中力がついたり、学校に行くのが好きになったり。そんな話しを聞くと、編物の原点に戻った気がして、手作りのよさを再確認してあったかい気持ちになります。


伝統のニットを展示している嶋田さんは私より10歳若いんですよ。また編物のイメージを変える人がやってきてくれる。「ニットに恋したピアニスト」いいじゃないですか!イメージっていうのはすごく大事なんですね。
私もこれからも全国を周ります。たくさんの方に声をかけていただいて、これも自分の使命かな、と思っております。


そして、「私、編物が好きなんです!」と言っていただける方が少しでも増えていったら、これ以上嬉しいことはありません。そんな淡い期待も抱きつつ、頑張っていきますので、これからもよろしくお願い致します。


関連リンク  広瀬先生と嶋田先生の対談
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 珊瑚のニット体験レポート

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